瀬戸は坂が多くて結構疲れます。こんにちは、筆者( .@azusagut )です。
みなさん、陶磁器のことを何と呼びますか?
「せともの」という言い方をする方も多いのではないのでは。
六古窯の一つで、陶磁器の代名詞になるほどの「瀬戸焼」。
どうしてそれほどまでに大きく成長したのでしょうか?今回はその瀬戸焼の、
- 歴史
- 特徴
- 資料館・美術館
- 陶器市
についてさくっとお話をしていきます。
他のやきものについては↓コチラから。
瀬戸焼の発祥。歴史と発展
愛知と岐阜の境に位置しています。
現在の愛知県瀬戸市に起こった瀬戸焼。その発祥は鎌倉時代初期までに遡ります。
この地域は「瀬戸群層」と呼ばれる地層があり、ここでは豊富な粘土、ガラスの原料の珪砂(けいしゃ)が採れました。
そんあ恵まれた地域で起きた瀬戸焼は、鎌倉時代より、国内で唯一施釉(せゆう)陶器を焼いていました。
これらは「古瀬戸」と呼ばれ、神仏ゆかりの品が多く、非常に価値あるものとして扱われていました。
室町時代には国内最大の窯場にまで発展をしますが、戦乱を逃れ陶工が美濃に移ってしまいました。
これを「瀬戸山離散」といいます。これをきっかけで「美濃焼」に「瀬戸黒」「黄瀬戸」などの技法が生まれました。
ちなみに、この「古瀬戸」の技法は、瀬戸市南東に位置する赤津(あかづ)に息づいていますよ。
この伝統的な技法で造られたものを「赤津焼」と呼ばれています。
質素なたたずまいで日常使い向き。
瀬戸焼の転機
瀬戸山離散ののち、衰退の一途をたどる瀬戸焼は、尾張徳川家が美濃の陶工を瀬戸に戻すなどして、保護していました。
江戸時代に瀬戸焼は大きな転機を迎えます。それは磁器の生産開始です。
有田焼を習った加藤民吉が、瀬戸に磁器を広めたのがきっかけです。
加藤民吉(かとうたみきち)彼のおかげで瀬戸焼は息を吹き返しました。
有田焼に倣った技法で焼かれはじめ、その勢いは本家有田焼をしのぐほどでした。
やがて海外輸出も盛んになり、取り入れられた絵付けや、成型法がもたらされました。
これら技術を用いて瀬戸で焼かれた磁器は繊細な絵付けを施され、「瀬戸染付焼」と呼ばれました。
もちろん陶器も今まで通り焼き続け、陶器を「本業焼」、磁器を「新製焼」と呼んで区別をしていました。
柔軟な瀬戸焼
変化する時代に合わせて、多様なうつわを焼き続けてきた瀬戸焼は、人々の生活に密着するものでした。
そのような流れでやがて、江戸時代後期には「せともの」という言葉が浸透し、陶磁器の代名詞になるまでになりました。
現代でもその姿勢は変わらず、うつわに限らず、ノベルティ、建築陶材、碍子、ファインセラミックスなどの作成まで行っているんですよ。
余談ですが、実は「せともの」という表現は東日本で使われ、
西日本では唐津物と呼ぶそう。
瀬戸焼き特徴
陶器である「赤津焼」は釉薬が最大の特徴です。
主に、淡い黄緑色の灰釉と濃い褐色の鉄釉の2種類を用いています。
日常使いを考え、長く使いやすい美しさ、機能性を造っています。
一方、磁器の「瀬戸染付焼」は白い素地にコバルト顔料を用いて絵付けしたもの。
瀬戸で産出される粘土は鉄分がほぼなく、美しい白を出すことができました。
いずれにしても、「生活に沿ったうつわ」づくりのため、例えば伊万里のように、見てすぐこれは「瀬戸焼だ!」とわかる明確な特徴はないかもしれませんね。
瀬戸焼の資料館・美術館
個人的には以下の3つがおすすめです!
瀬戸蔵ミュージアム
歴史勉強には最適です。当時の窯が再現されており、童心にかえって楽しめますよ。行ってきました。
愛知県陶磁美術館
常設、企画展はどちらも見ごたえ十分!陶芸体験もできますよ。
瀬戸市まるっとミュージアム・観光協会
名古屋から40~50分ほどで瀬戸には行けますので是非足を運んでみてください。
瀬戸焼の陶器市
瀬戸焼は年に5回ほど陶器市が催されます。
陶祖まつり
毎年4月ごろ開催。
せともの祭
毎年9月ごろ開催。
窯めぐり
毎年5月と9月の年2回開催。
やきものワールド
毎年11月ごろ開催。日本最大級の陶磁器フェア。
瀬戸焼のまとめ
本記事では「【さくっと解説】六古窯が一つ瀬戸焼の歴史や特徴【瀬戸染付焼・赤津焼】」について書きました。
柔軟な姿勢で時代にニーズに合わせたものを焼き続けてきた瀬戸焼。
今後もその姿勢を崩さず、わたしたちの生活を豊かにしてくれそうですね。
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