この記事を書いている間に、益子焼のコーヒーカップを衝動買いした筆者( .@azusagut )です。
今回は笠間焼の兄弟窯と言える、益子焼についてです。
益子焼はかなり人気のあるうつわですね
今回は、益子焼の
- 歴史
- 特徴
- 資料館・美術館
- 陶器市
について書きました。
益子焼といえば、濱田庄司を思い浮かべる方もいるのでは
他の焼き物については↓コチラから。
益子焼の歴史
まずは地理から。
笠間がほど近く、益子のはじまりには笠間もかかわってきています。
益子焼のおこり
益子焼が生まれたのは江戸時代の末期、1853年のことです。
笠間焼で修業をした大塚啓三郎が現在の益子町で窯を開いたのです。
藩の援助を受け、壺、甕といった日用品を作成し、江戸でも使われるほどのものが焼かれていたそうです。
当初は窯の数も少なく、外部から招いた職人に払う給料などで四苦八苦を重ねていましたが、
陶土や釉薬に恵まれた益子の売れ行きは順調だったそうです。
途中から粗悪品もでて信用が落ちたりすることもあったそうです
時代の波に押し流された低迷期
そんな益子焼ですが、他の陶器と同じく生活様式の変化のあおりを受けることになります。
大正時代のころから燃料が石炭ガスに代わり、台所用品は高熱に耐えるアルミといった金属に代わったこと、
ガラス瓶ができるなど、保存容器が陶器にとってかわったことから、陶器の役割は影をひそめてしまいました。
益子焼は販路を東京より、北に目を向け東北地方、北海道へと伸ばしていきました。
それでも売り上げは下がってしまい、1919年には一時製造中止においこまれてしまいました。
復興と、全国への認知へ
1923年、関東大震災が起こりました。この震災により多くの家屋が倒壊、焼失し家財も失われました。
この際に益子焼の需要が急激に増え、生産が追い付かなくなるほどだったそうです。
翌年1924年、益子焼に大きな転機が訪れます。民藝運動にかかわりのあった濱田庄司が移住してきたのです。
民藝といえば「用の美」。彼は益子焼民芸品として推奨。多くの人に影響を与えました。
彼の移住後、花瓶や食卓用品も多くなりました
そうして彼に感化され、益子には多くの陶芸家が集まりました。
もともと首都圏からも近いこともあり、流通とともに益子の人気は一気に高まったのです。
1979年には国の伝統工芸品にも指定されました
益子焼の特徴
益子焼の特徴は、陶土に他の物資を加えずに作ることがまず挙げられます。
そのために益子焼はたっぷりとした厚手になります。
釉薬は主に茶色や黒で施され、白化粧や刷毛目で大胆な装飾を施します。
素朴な飾り気のないものも多いですが、現在では様々な技法で造られている益子焼も多いですよ。
益子焼の資料館
現地に行くことがあれば、以下の3つがおすすめスポットです。
濱田庄司記念益子参考館
益子焼を語るうえで避けられない濱田庄司の記念館。
彼の蒐集物が見られるほか、井寛次郎、バーナード・リーチらの作品等も展示されています。
益子陶芸美術館
旧濱田庄司邸や生前愛用していた窯が再現されています。もちろん益子焼の歴史も学べ、展示も見られます。
つかもと美術記念館
明治20年頃に建築された庄屋造り。
館内には、多くの作品が見られ、併設の茶房では、人間国宝島岡達三氏の器で珈琲も楽しめます。
益子焼の陶器市
益子では春と秋の2回、陶器市を実施しています。春は「益子陶器市」、秋は「益子秋の陶器市」
です。是非行ってみてください。
益子焼のまとめ
本記事では、「【さくっと解説】濱田庄司が広め新風吹く益子焼|歴史と特徴について」について書きました。
濱田庄司の推挙があり、全国的に広まった益子焼。若い風がどんどん入ってますます人気も高まっています。
古き良き益子焼も、新しい益子焼も楽しんでください
コメント