金彩バチバチを未体験のうつわにやさしい子ども時代でした。こんにちは、筆者( .@azusagut )です。
皆様は、このようなうつわを見たことがありますか?
これは京薩摩(きょうさつま)と呼ばれるうつわで、幕末から明治にかけて造られたものです。
今回は、日本のうつわにしてはかなり豪華絢爛な京薩摩について、さくっと解説していきたいと思います。
この記事では、
- 歴史
- 特徴
- 資料館・美術館
についてお話していきます。
ほかのやきものについては↓コチラから。
京薩摩の名前の由来
なんで「京」「薩摩」なの?という疑問があると思いますが、理由は簡単です。
京都において造られる陶器を薩摩の「薩摩金襴手(さつまきんらんで)」という手法で作られたことから、
「京薩摩」という名前になりました。
ちなみにこの「薩摩金襴手」は薩摩藩主専用の御庭焼として誕生し、
主に藩主の嗜好品、徳川将軍や大名諸侯などの献上品として使われてたものです。
なんでその手法が京都に持ち込まれ、京薩摩ができたのかは京薩摩の歴史でお話しします。
京薩摩の歴史
京薩摩の誕生は、幕末から明治初期にかけてです。
誕生のきっかけはずばり、「海外輸出」 です。
実は薩摩金襴手は1867年のパリ万博に薩摩藩が出品したところ、
欧州から絶大な人気を集めたのです。海外で「SATHUMA」として好まれたそうですよ。
そんな大人気の薩摩金襴手を使わない手はない。
そこに目を付けたのが、京都は三条粟田口に窯を構える錦光山 宗兵衛(きんこうざん そうべい)でした。
彼の窯を中心に、京焼と薩摩金襴手のコラボレーションによって「京薩摩」が誕生したのです。
もともと京都は全国から優れた人材と材料が手に入る土地。
そんな京都で作られた「京薩摩」はたちまち評判となり、
最盛期には従業員数700名、敷地4,000坪にも及ぶ窯に成長したのです。
一時は本家薩摩焼の生産量をも上回り、イギリス、フランスをはじめとする各国へ輸出されていきました。
現在でも世界の美術館では「SATSUMA」が展示されているんですよ。
しかし、その栄華も長くは続きません。大正時代にも入ると欧州は戦乱に巻き込まれてしまいます。
そのため輸出量が減ったこと、京薩摩も粗悪品が横行するといったこともあり、
次第に京薩摩は勢いを失っていきました。
そして昭和時代にもなれば日本も戦争がはじまったこと、
次世代への担い手がいなくなってしまったことが重なりかつて栄華を極めた京薩摩もついにその火が潰えてしまったのです。
京薩摩の今
それでは、京薩摩は完全に途絶えたのか。そうではありません。
京薩摩に魅せられ、現代に京薩摩を蘇らせた方がいます。
その人こそ、空女(くうにょ)さんです。
彼女については、公式HPをご覧ください。
今後も京薩摩の復興が進むといいですね。
京薩摩の特徴
とにかく豪華絢爛なこと。そしてこの絵付けは全て職人の手作業によってなされるもの。
金襴手という手法は、陶芸界において最も困難な手法の一つとして数えられています。
多様な色彩のため、焼成は最低でも4回は必要で、制作時間は膨大なものになります。
詳しい陶器の作り方はこちらから。
この手法は実は東京(江戸)、神戸や金沢などでも取り入られ、薩摩焼風の商品は結構見られるんですよ。
京薩摩の資料館・美術館
京薩摩を実物で見てみたい方は、下記施設へどうぞ!
清水三年坂美術館
清水寺の参道沿いにあり、京薩摩が常設されています。
アクセスも良いので、京都へ行った際はぜひ足を運んでみてください。
また、京都には京薩摩を販売しているお店もいくつかあるほかネットでも購入が可能です。
京薩摩のまとめ
本記事では「【さくっと解説】幻とも言われる京薩摩とは?その歴史と特徴について」ついて書きました。
一度は途絶えてしまった京薩摩ですが現代でもその姿を拝むことは可能です。
京都へ行かれた際はぜひ、てにとってみてください。
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